初鹿野

屋形北部に「初鹿野」という地名がありますが、この地名は古く、いまから1300年ほど前に編集された「播磨国風土記」にその名が見られます。

この本には初鹿野にまつわる面白い伝説があります。オオナムチノミコトとスクナヒコナノミコトという2人の神様がいましたが、仲が悪くて言い争い、その決着をつけるために競争をしました。重い荷物を背負って但馬道を下るマラソンです。

そのうち疲れてしまい、がまんできなくて競争をやめてしまったのが「初鹿野」であったと言われています。

また応神天皇が瀬加から生野へ狩を行ったとき、ここで多数の鹿の群れと出会いました。

そのために「初鹿野」という地名が起こったという伝説もあります。

 

【ぶらり市川散歩道の43ページ 初鹿野】


播磨国風土記 初鹿野について

埴岡と号くる所以は、昔大汝命と小此古尼命と相争いて、のりたまいしく、「埴の荷をになひて遠く行くと、屎下らずして遠く行と、͡此の二つのこと、何れか能く為む」とのりたまひき。大汝命のりたまひしく、「我は、屎下らずして行かむ」とのりたまいき。

少此古尼命のりたまひしく、「我は、埴の荷を持ちて行かむ」とおりたまいき。各相あらそうて行でましき。数日巡て、大汝命のりたまいしく、「我はいきあへず」とのたまひて、やがて坐て、屎下りたまいき。その時小此古尼命、わらひてのりたまひしく、「然苦し」とのりたあひて、亦、其の埴をこの丘に擲ちましき。故、埴岡となづく。又、屎下りたまひし時、小竹、其の屎を弾き上げて、衣に行ねき。故、波自賀の村となづく。其の埴と屎とは、石となりて今に失せず。一家いへらく、品太の天皇、巡り行でましし時、宮を此の丘に造りて、勅りたまひしく、「此の土は埴たるのみ」とのりたまひき。故、埴岡といふ。

【やさしい市川町の歴史 『初鹿野のはなし』180ページ より】 

 

簡易訳

昔、大汝命と小此古尼命が埴(粘土)の荷物をかついで遠くへ行くのと、屎をしないで遠くまで歩いていくのとどちらのほうがより遠くへ行けるか。と争うことになりました。大汝命は「自分は屎をしないでいくことにする」と言い、小此古尼命は「自分は埴(粘土)の荷物をかついでいこう」と言いました。二人の神は競争しながら進みましたが、数日経って、大汝命が「自分はもうだめだ」と言って座って用を足しました。同じくして、小此古尼命も笑いながら「自分ももう苦しい」といって、荷物を丘になげうちました。ゆえに、その場所には埴岡と名付けれられています。また、用を足したとき、小竹が屎を弾いて衣についたため、その場所が波自賀の村と名付けられました。

 


波自賀の村は現在の屋形北部の「初鹿野」となっています。

埴岡は、神河町の比延の日吉神社裏の岩であるとされています。